白い部屋

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作家とその義務 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

作家とその義務
2008/11/25
パウロ・コエーリョ

2002年5月29日、私の本「11分間」の最後のの文章を書く数時間前、何本かのボトルをその泉の聖水で満たすために、私はフランスのルルドのグロット(訳注:洞穴)に行った。
大聖堂の敷地に入ったとき、70歳位の男性が近寄って来てこう言った。:「パウロ・コエーリョに似ていますね。ご存知ですか?」私はその本人だと彼に答えた。

その男性は私を抱擁し、彼の妻と孫娘を紹介してくれた。彼は、私の本が彼の人生でいかに重要かを話し、次の言葉で締めくくった。:「あなたの本は私に夢を見せてくれるのです。」

私は、その言葉をすでに何度か聞いたことがあり、それは常に嬉しいものだった。しかし、その時は少し怖くなった。なぜなら、「11分間」が、繊細で強烈で衝撃的な疑問に触れていると分かっていたからだ。それは、自らの魂を探し求めるブラジル人娼婦の話だ。私は泉に歩み寄り、ボトルを満たして引き返し、その男性に住んでいるところを尋ねて(ベルギーに近いフランス北部だった)名前を書きとめた。

まさにそのとき、私はその男性モーリス・グラブリーヌにこの本を捧げることにした。私は、彼と彼の妻、孫娘、そして自分自身に義務を負っている。その義務とは、皆が聞きたいことでなく、私が気になったことについて話すということ。

夢を見せてくれる本もあれば、現実を見せてくれる本もある。だが、作家にとって最も重要なことを避けることはできない。即ち、何を書くかに対して誠実であることだ。セックスについて書くことは、若い頃から私が直面していた挑戦だ。ヒッピー革命が、時に常識の限界を引き延ばしながらも、セックスにおいて一切合切の新しい行動様式を考案した頃だ。
その熱狂の日々の後、死に至る病気が出現したために保守的な時期を経た。そして「それで、セックスは本当にそれほど重要なのか?」という永遠の疑問が残された。

私たちは標準的な行動の世界で生きている。:美、質、知性、能力の標準。私たちはすべてにおいて模範があると信じていて、その模範に従えば安全だとも思っている。

まさにそのために私たちは「セックスの標準」を設定し、それは実は嘘の連鎖で構成されている。:膣のオーガズム、とりわけ男らしさ、パートナーを失望させるよりはフリをする方がマシ、等々。この種の態度の直接的な結果は、数えきれない程の人々の欲求不満、不幸せ、罪悪感がそのままになっていることだ。そしてこれが小児性愛、近親相姦、レイプなどあらゆる種類の逸脱を引き起こした。それほど重要なことでなぜ私たちはこのような行動をするのか?

作家が、彼の本の行く末を知らないように(予期せぬ方向に本文が脱線するのはそれが理由だ。)、私たちも自分達の矛盾を生きなければならない。とりわけ、セックスや愛と同じくらい繊細な領域において。いつでも標準に従おうとする人は、昨日と同じことを今日も考え、靴下に合うネクタイを常に身に付けることを余儀なくされる。これ以上の退屈があるだろうか?

個人の違いを尊重せずに、「標準」な性行動に近づく今日の社会は、人としての最も美しい詩のひとつを思い出すべきだ。ナグ・ハマディの近くで発見されたイシスへの頌歌は、学者の主張では3〜4世紀の間に書かれたものと言う。:

私が最初の者で最後の者であるゆえに
私は崇められた者であり軽蔑された者
私は娼婦であり聖者
私は妻であり処女
私は母であり娘
私は私の母の両腕
私は石女であり子だくさん
私は良き既婚者であり独身女
私は光を与えた者であり出産しなかった者
私は妻であり夫
そして彼の腹を痛めて私を産んだのは私の夫
私は私の父の母
私は夫の姉妹
そして彼は拒絶された私の息子
常に私を尊敬しなさい
私が恥を知らない者であり慎み深い者であるゆえに

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