白い部屋

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ルー・ザロメ - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

ルー・ザロメ
2013/3/4
パウロ・コエーリョ

ルー・ザロメの母は、21歳の彼女をイタリアのローマに連れて行った。街の文学サロンで、ザロメは作家でギャンブル中毒のパウル・レーと知り合った。彼女は彼に学術コミューンで暮らそうと提案した。2ヶ月後、ふたりはパートナーになった。1882年5月13日にレーの友人フリードリッヒ・ニーチェが2人に加わった。3人はザロメの母と共にイタリアを旅し、自分達のコミューン「Winterplan(冬の計画)」をどこに設立するかを考えた。10月にドイツのライプツィヒに到着し、ニーチェザロメの仲違いの後、ザロメとレーはニーチェと別れた。その中でザロメは、ニーチェが彼女に必死で恋をしていると信じていた。

彼女は際立って賢明で魅力的だった。人々は次から次へと彼女に恋した。ニーチェのように。言い伝えによれば、ニーチェザロメに会ったとき、次のように言った。:「ここで出会うために、君と僕はどの星から来たのだろう。」

ニーチェの母は伝統的な精神の持ち主で、ルーを好きでなかった。だが、ニーチェは、自分の妹は母に反対して自分の側に着くだろうと考えた。妹が策略家であることを彼は理解していなかった。生まれついての未婚女性として、彼女はルーが中央舞台を占拠したやり方を評価しなかった。

ザロメは1ダース以上の小説、イプセンの女性登場人物の研究、そして、友人フリードリッヒ・ニーチェについての有名な本を書いた。それは1894年の「Friedrich Nietzsche in seinen Werke(その作品に見るフリードリッヒ・ニーチェ)」で、ニーチェの作品についての19世紀で最も有益な本のうちのひとつだ。

彼女はまた、人生を通しての親しい友人であり、元恋人だった詩人のライナー・マリア・リルケについての思い出の本を1926年の彼の死後に編集した。彼女の作品の中には、晩年、自由な女としての自分の人生の思い出を元にした本もある。

彼女の回想録は、1951年に原語のドイツ語で最初に出版された。彼女は自分の信念と交友関係の問題について深く切り込む。

「バラの茂みに辿り着く人は、誰でも一握りの花を手にするでしょう。
でも、どれだけたくさん持っていても、それは全体のうちのほんの一部にすぎません。それでも、一握りあれば、その花の性質を経験するのには十分です。
一度にすべてを手に入れられないからといって茂みに手を伸ばすことを拒むか、
あるいは自分たちの一握りの薔薇がまるで茂みそのもののすべてであるかのように広げるときにだけー。そのときだけそれらは私たちから離れて咲き、私たちはそれを知ることなくひとり残されるのです。」

ザロメは晩年、こう言ったと言われる。「生涯、私は何は置いても仕事ばかりやって来た。なぜ仕事なの?」そして、最後の数時間、彼女はこう言ったと伝えられる。「想いを巡らせても私には誰もいない。結局のところ、死ぬのが一番なんだわ。」

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