ジプシーと母なる女神 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより
拙訳
ジプシーと母なる女神
2012/4/1
パウロ・コエーリョ
年に一度、世界中のジプシーがフランス南部のサント=マリー=ド=ラ=メールに出向き、聖サラに敬意を表する。伝統によればサラは、イエスの叔母のマリー・サロメがローマ人の迫害から逃れようとして他の流浪の民一緒にと到着したとき、小さな海辺の町に暮らしていたジプシーだった。
美しいローブを身にまとったサラの像は、(バチカンが決して彼女を聖人に加えないので)教会の近くのどこかから持ち出され、薔薇をまき散らした狭い通りを通過し、行列で海まで運ばれる。伝統的な衣装に身を包んだ4人のジプシーが花でいっぱいにしたボートに遺物を置き、ジプシー達の到着とサラとの出会いを再現した。
その瞬間から、音楽、宴会、歌、雄牛の前で勇敢さを示す競技などの全てが行われる。
サラを世界中で見られる黒いマドンナと同一視するのは簡単なことだ。
伝統では、サラ・ラ・カリは高貴な血統の出身で世界の秘密を知っていたということだ。私の考えでは、彼女は母なる女神、創造の女神と呼ばれるたくさんの顕現のひとりだと思う。
毎年、サント=マリー=ド=ラ=メールでの祭りは、ジプシーのコミュニティーと全く無関係の人々をより多く惹き付けている。それはなぜか?その理由は、父なる神が常に厳格さ、宗規と関連づいていて、反対に母なる女神は、私たちが良く知っているあらゆる禁則とタブーよりも愛の重要性を示すからだ。
現象は新規なものではない。というのは、宗教が規則を厳しくするときはいつも、かなりの人々が、霊的な接触のさらなる自由を求める傾向にある。これは中世に、カソリック教会が、税金を課し贅沢三昧の修道院の建設に専念したときにも起きた。その結果として、「魔術」と呼ばれる現象が出現し、その革命的性質のために抑圧されていたにもかかわらず、その根源と伝統は世紀をまたいで生き残ることができたのだ。
初期の伝統では、自然崇拝は聖書への崇敬よりも重要だ。;女神は全ての中にあり、全ては女神の一部だ。世界は単に、彼女の善性の顕現だ。例えば道教や仏教のように、非創造物と創造物の間の区別をなくす多くの哲学体系がある。人々はもはや人生の神秘を解読しようとはせずに、むしろそれに参加しようとする。
私たちが「罪」と呼ぶ一般的な任意の道徳規範の逸脱は、偉大なる母の信仰でははるかに柔軟だ。それは自然の一部で、悪魔の産物ではあり得ないと考えられているので風習はより自由だ。神が母ならば、必要なことは、ダンス、火、水、空気、土、歌、音楽、花と美のような彼女の女性的魂を満足させようとする儀式を通して、それに参加し彼女を崇拝することだけだ。
傾向は過去数年に渡ってより大きくなっている。ついに魂が物質と統合し、団結、変化するという世界歴史上非常に重要な瞬間を、おそらく私たちは目撃しているのだろう。