白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

魔法の山 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

魔法の山 
2019/5/19
パウロ・コエーリョ

世界で最も美しい地方のひとつは、フランス南西部のピレネー山脈の一部であるラングドックだと思う。私はそこに何度か行ったことがあるが、その谷、山、植生と川は、常に感動的だ。しかし、人間というのはまったく予想出来ないものだ。まさにこの素晴らしい場所で、最初の偉大なヨーロッパの「異端」であるカタリ派が起こった。

このことについては多くの本に書かれているが、カタリ派の哲学はひとつの簡単な言葉に要約することができる。;宇宙は悪魔によって作り出され、目に見える美はすべて悪魔の仕業だ。

百科事典によれば、彼らは、物質界に作り出された善(神)と悪(悪魔)の二つの神の存在を信じる二元論者だった。このため、貞節の誓いを立て、より多くの悪魔の信者を生んだり存在させたりしないようにしていた。彼らは、自分達を「完全なもの」と呼び、信仰の重要性を証明するために殉教する傾向があった。歴史に記録された最初の聖戦の引き金となった運動の象徴的な最後は、1244年3月15日にモンセギュール城の要塞で起きた。カトリックに改宗するか死かの選択肢を提供された長い包囲の後、約250人の「完全な」男女とこどもが山を降りた。臨時に作られた焚火の炎に身投げする意志を歌いながら。

長い間、私はカタリ派に関心を持っていた。1989年、私はブリーダ・オフェーン(彼女は後に私の本の登場人物となった)に会い、彼女は以前の転生でカタリ派であった。その年の始め、私はミニカ・アンチュンズに会っている。彼女は当時、私のただの友人だったが、今では友人でエージェントになっている。

霊的な理由により、私はカタリの散歩(「完全なものたち」の城と要塞をつなげる道)を続ける必要があった。私は彼女をその散歩に参加するよう招待した。

ミニカと私は、ある8月の午後、モンセギュール山の麓に到着した。翌日に山に昇る計画を立て、夕食の後で、およそ800年前に焚火が焚かれた場所(無意味な記念碑がその場所の印になっていた)に私たちは話しに行った。天候は曇りで低い雲がかかっているので、巨大な岩の頂上にある遺跡すら見ることが出来なかった。私はミニカを煽ろうと、真夜中に登山をすれば面白いのではないかと言った。彼女はいやだと言い、私は安心し、もし彼女がそうすると言っていたら!と想像した。

その瞬間、メーカーと色が私のと同じ車がやって来た。アイルランド人の男が降り立って、岩に登れる地点はどこかと、まるで私たちが岩を登ることが出来る地域の出身であるかのように尋ねた。私は、明日の朝に私たちと一緒に登山しようと提案した。だが彼は、その夜に登ると決意し、そこへ登って朝日が昇るのを見たいと望んでいて、自分はおそらく過去生でカタリ派だったのだと主張した。

「ランプを貸して頂くことはできないでしょうか?」と彼は尋ねた。

すべては合致しているように思える。;ブリーダ、カタリの道を進まなければならない義務、ミニカへの数分前に言った冗談、そして今のこの男、しかもちょうど私と同じような車に乗っている。それは兆候だ。私は滞在中のホテルに行って、唯一あったランプを借りて来た。

ミニカは怖がっているようだが、前に進むべきだと私は言った。兆候は兆候だ。新参者は道がどこにあるのか尋ねる。それは問題ではなくただ道を歩き始めるだけだ、と私は彼に言った。

しばらくの間(どれくらいの間かは思い出せない)、私たち3人は山を登った。知らない山で、夜で、霧のために数ヤードの視界しかなかった。遂に私たちは雲を突き抜けた。空は満点の星で、満月で、私たちの前にモンセギュール城の要塞の門が立っていた。

私たちは中へ入り、遺跡をじっくりと眺めた。私は天空の美を見つめ、事故ひとつなく私たちがそこに着いたことを不思議に思い、そして、何も質問せずただ奇跡に敬服するのがベターだと考えた。カタリ派はこのまさに同じ空をじっくりと眺め、これらの星すべては悪魔の仕業だと信じた。私がカタリ派を理解することはないだろうが、彼らが自分達の信仰に身を捧げたという高潔さを尊敬する。

私はモンセギュール城に戻って、さらに何度か山を登ったが、1989年の8月の夜に私たちが通った道を決して再び見つける事が出来なかった。

不思議は存在する。

paulocoelhoblog.com 

youareme.hatenablog.com