白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

マスターとの対話ー探求を体系化する - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

マスターとの対話ー探求を体系化する
2006/11/8
パウロ・コエーリョ

ここで私は、私の友人でありRAM(Regnus Agnus Mundi)教団のマスターでもあるJ.との会話について1982年と1986年の間に取ったメモの抜粋の転記を続けている。決断しなければならないとき、私は常に助言を求めていたのを覚えている。J.は普段、話す前にはしばらく沈黙した。:

「身近な人々は、私たちが決断しなければならないときに重要なヒントを与えることができる。しかし、この目的のために必要なものは、鋭い目と注意深い耳だけだ。すぐに解決策を出せる人たちは通常疑わしいのだ。

「助言を求めるのは非常に危険なことだ。相手に対して最低限の責任感しか持っていない場合には、助言を与えるのはとてもリスクが大きい。彼らが助けを必要とするなら、他人が問題をどのように解決するか、または解決しないかを見るのが最善だ。
天使は、私たちに何かを告げるためにしばしば誰かの唇を使う。だが、この答えは、通常は心配事が人生の奇跡を曇らせていない時に何気なく来る。必要だと天使が考える瞬間に、慣れ親しんだ方法を話してもらおう。
助言はただの理論で、生きることはいつも全く別なのだ。」

それから彼は私に面白い話をした。:

マスター・カイスが弟子と砂漠を歩いていたとき、そこに何年も住んでいた隠者に出くわした。弟子は、宇宙に関する質問を彼にたくさん浴びせ始めた。だが結局、持っているように思えた知恵を、その男は持っていなかったということがわかった。
弟子達がカイスにこれを言った時、カイスは答えた。:

「どれほど良い助言者であろうとも、心配している人に助言を求めてはいけない。;知的に見えようとも、見栄っ張りな人に助けを求めてはいけない。心配と虚栄は知識を不明瞭にするからだ。なにより、1人で暮らす人を疑いなさい。普通、彼らがすべてを放棄したからというよりも、むしろ他人と暮らす方法を知らなかったから1人なのだ。そのような人物からどんな知恵を期待出来るのか?」

J.は空港に向かって出発し、私は私たちの会話を深く考えるために放っておかれた。私は助けが必要だった。なぜなら、私はいつも同じ間違いを何度もしていたからだ。私の人生は古い問題を中心に展開していて、時折、前に何度も私の道を横切った状況に直面していた。そのため私は落ち込み、向上することが出来ないと感じた。私は、今日でも良く行くカフェに入ることに決め、ただ座って自分の周りのすべてを観察した。何も新しいものはなく、絶対的に何もなく、見捨てられたように感じ始めた。

私は、誰かが近くのテーブルに置いていった新聞を見ることにして、それをランダムにパラパラとめくり始めた。私は、再発表されたばかりのグルジエフの古い本のレビューを発見した。;批評家は本からの抜粋を使った。:

意識的な信仰は自由である。
本能的な信仰は奴隷である。
機械的な信仰は狂気である。
意識的な希望は強さである。
感情的な希望は臆病である。
機械的な希望は病気である。
意識的な愛は愛を呼び起こす。
感情的な愛は予期せぬ出来事を呼び起こす。
機械的な愛は憎しみを呼び起こす。

そこに答えがあった。:微妙な違いを持つ同じ要素(信仰、希望、愛)が、常に異なる結果に導く。私は、繰り返された経験が目的に役立つことに気付き始めた。それらはまだ学んでいないことを教えてくれるのだ。その日からずっと、繰り返される苦闘のたびに、私は常に異なる解決法を探している。ーそして少しずつ、私は自分の道を見つけた。

再び私たちが会ったとき、私の霊的探求を少し体系化するにはどうするべきか、私は尋ねた。それはどこにも行き着かないように思えた。彼は次のように答えた。:

「いつでも筋を通そうとしてはいけない。:自分自身にとっての驚きでいることの喜びを発見しなさい。首尾一貫していることは、靴下に合うネクタイをいつでもしなければならないようなものだ。それは、今日と同じ意見を明日も保つよう義務づけられているという意味だ。世界はどうだ?常に動いているではないか。それが誰にも害を与えない限り、あなたの意見を時折変えなさい。そして、恥ずかしがることなく自分に矛盾しなさい。ーあなたはその権利を持っているのだ!他人が考えることは気にするな。何があろうと彼らはそう考えるだろうから。」

ーしかし、私たちは信仰の話をしていたはずです。

「その通り!あなたのすることを続けなさい。だが、すべての行為に愛を込めるよう努めなさい。:あなたの探求を体系化するにはそれで十分だ。普通私たちは、毎日することに価値を与えない。しかし、それらが私たちの周りの世界を変えるのだ。私たちは、信仰というのが偉人のための任務だと考えが、伝記を数ページ読めば、どの聖人も絶対的にありふれた人だとわかる。彼らが、自分自身の最高のものを他人と共有すると決めたという事実を除いては。

「それ自身を霊的な道に捧げようと決めた時、多くの感情が人間の心を動かす。信仰や隣人愛や慈善のように「高貴な」理由かもしれない。もしくはただの思いつき、孤独への怖れ、好奇心、死への怖れかもしれない。どれも問題ではない。本当の霊的な道はそこに導く理由よりも強く、愛、規律、尊厳をもって少しずつそれ自身を負わせる。
振り返り、旅の始まりを思い出し、自分たちのことを笑う瞬間が訪れる。全くつまらない理由で道を旅したにもかかわらず、私たちは成長できたのだ。」

ー少なくとも愛と尊厳を持ってこの道を旅していることを、どうやって私は知るのですか?

「神は、共に生きることを教えるために孤独を使う。平和の果てしない価値を理解出来るように、時には怒りを使う。別の時には、冒険と物事を置き去ることの重要性を示そうとして退屈を使う。」

「神は、言うことの責任を教えるために沈黙を使う。目覚めの価値を理解出来るように、時には疲れを使う。別の時には、健康の重要さを示そうとして病気を使う。」

「神は、水について教えるために火を使う。
空気の価値を理解出来るように、時には土を使う。命の大切さを示そうとして時には死を使う。」

ーそれで、皆が共有する罪悪感について、私たちは何をしますか?

「最も悲劇的な瞬間である磔のとき、泥棒のひとりは、隣りで死にかけている男は神の息子だと気がついた。「主よ、天国にいるとき、私を思い出して下さい。」とその泥棒は言った。「実を言うと、今日あなたは天国で私といるはずなのです」とイエスが答えた。そして、盗賊をカトリック教会の最初の聖人とした。:サン・ディマスのことだ。」

「ディマスがなぜ死を宣告されたのか、私たちは知らない。聖書には、彼は罪を告白し、犯した犯罪のために磔にされたと書かれている。そのやり方で人生を終えるほどに、残酷な、恐ろしいことを彼がしたと考えよう。だがそうであっても、人生の最後のひとときに彼は救い出され、栄光を与えられた。ー信仰の行為によって。」

「何かの理由であなたの道を続けることが不可能だと感じるときは、この例を思い出しなさい。」

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