白い部屋

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マスターとの対話-過去を見ること - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

マスターとの対話-過去を見ること
2006/10/25
パウロ・コエーリョ

私は決して過去に住む人間ではない。;現在は、私たちが生きてきたすべての結果だ。この瞬間にどう行動するかを見れば、私たちが祝福を十分に理解し、呪いを修正するには十分だと思う。

しかし、私の人生が、ジャーナリストで伝記作家のフェルナンド・モライスによってひっくり返されている今、友人でRAM(Regnus Agnus Mundi)教団のマスターでもあるJ.の見習いをしていた頃のいくつかのメモを見ることにもした。
メモの大半は、1982年から1986年の間に書かれたものだ。
何年も前、私はそれらの対話のいくつかをこのコラムで公開し、読者からの反応は素晴らしかったが、私はそれで十分だと感じた。
それにも関わらず、塵で覆われた何冊かのノートブックを読み直すと(私はもうメモを取ったり、日記をつけたりしていない)、とても特別なものをいくつか発見した。
次の4つのコラムで、最も興味深く、私の心を打ったそれらのメモを書き写そう。


ある午後、何の成果も得られなかった一週間のスピルチュアルな訓練の後でコパカバーナのカフェに座っていた私に、疑問が浮かんだ。:
ー神がそばにいると知っているにも関わらず、私はしばしば神に無視されているように感じる。神との対話を確立するのは、なぜそれほど困難だのだろうか?」

「一方では、私たちは神を求めるのが重要だと知っている。他方では、私たちが神に無視されていると感じるからか、日常生活で忙しいからか、人生は私たちを神から遠ざける。このため、私たちは非常に罪悪感を覚える。:私たちは、神のために人生を放棄しすぎていると感じるか、または、人生のために神を放棄しすぎていると感じる。この見かけの二重の法は幻想だ。:神は人生の中にいて、人生は神の中にある。日常の存在の聖なる調和を貫くことができるのならば、私たちは常に正しい道上にいる。私たちの日常の仕事は、神の仕事でもあるのだから。」

ーしかし、あなたが言うことを本当に信じるためには、どんな種類の訓練が可能でしょうか?

「リラックスすること。スピリチュアルな旅を始めるとき、私たちは神と話すのが非常に困難であることを望む。ーそして結局は、神が告げなければならなかったことを聞けずに終わる。だから、少しリラックスすることが常に望ましい。それは簡単ではない。:私たちは、正しいことをするという自然な傾向を常に持っていて、休まず働くことで魂を向上させると感じるのだ。」

ー受け身になり、向上しようとしないようにすべきだと、あなたは言っているのですか?

「それは、あなたが仕事をどのように見るかによって異なる。明日人生が私たちに提供出来るのは、昨日と今日したことの繰り返しだと感じるかも知れない。しかし、注意さえ払えば、一日たりとも別の日とは似ていないということが分かるだろう。どの朝も隠された祝福をもたらす。それは、その特別な日だけ有効な祝福で、取っておくことも再利用することも出来ない。
私たちがこの奇跡を今日活かさなければ、それは失われるのだ。」

ーしかし、例えば瞑想のように、この神との対話を確立する確かな方法はないのでしょうか?または、私が毎日を良くするために試みることは?

「あなたの質問で、アイディアを持った1人の男が明らかになる。その質問が常に存在し続けることができれば、すべては整合する。あなたが探しているような理想の条件は存在しない。私たちは特定の短所を取り除くことが決して出来ないだろう。あなたの欠点に関わらず、あなたがここにいる理由があるということを知っていることが秘訣であり、あなたはその理由を敬うべきだ。

「あなたが慣れた限界を超えようとしなさい。一日に10分間、あなたが常になりたかった人物になりなさい。内気さが問題なら、会話を刺激しなさい。罪悪感が問題なら、承認されたと感じなさい。世界が自分を無視していると考えるのなら、意識的に皆の視線を惹き付けてみなさい。時折困難な状況を経験するだろうが、その価値はある。一日に10分間、夢見たものになれるのなら、あなたはすでに大きな進歩を遂げている。」

私は、家に住む6つの困難についての仏教の経典を引用して、彼を刺激することにした。:その構築に関わる仕事、その支払いをするためのより多くの仕事、それを常に修理しなければならない仕事、政府に没収されるリスク、家は訪問者や望まない客で途切れることなくいっぱいで、咎められるべき活動のための隠れ家として使われている。

同じ仏教の教典によれば、橋の下に住むには6つの利点がある。:見つかりやすく、川は、人生が旅であることを私たちに示してくれ、貪欲の感情を取り除き、垣根は必要なく、誰か新しい人が常におしゃべりのために通り過ぎ、家賃を払う必要がない。

それは美しい哲学だが、少なくとも私の国では、人々が橋や
陸橋の下で暮らしているのを見るとき、この教典が確実に間違っていると知っている、と私は最後に言った。

J.は答えた。:
「この教典は美しいが、私たちの文脈ではそれは確かに間違っている。しかし、私たちの罪悪感を育てるためにそれを役立てるべきではない。私たちは、自分たちの給料、自分たちの意見、自分たちの経験、自分たちの隠れた願望、自分たちの話し方など、自分自身の中で本物であるすべてに罪悪感を覚える。私たちは、自分たちの両親や自分たちの兄弟にさえ罪悪感を覚える。

「それで結果はどうか?麻痺状態だ。私たちは、他人の期待と違うことをするのを恥じるようになった。私たちは自分たちの考えを掘り起こすことはなく、助けも求めない。こう言ってこれを正当化する。:「イエスは苦しまれた。苦しみは必要だ。」
エスは多くの苦しみの状況を経験した。しかし、彼はその状況の中にそのままとどまることを決して擁護しなかった。
このタイプの言い訳で卑怯を隠すことはできない。そうしないと、全世界は前進できない。陸橋の下の誰かを見たとき、あなたが彼らを助けに行くのはそのためだ。彼らはあなたの世界の一部だから。」

ーそして、それはどうすれば変えられますか?

「信頼すること。それが可能だと信じなさい。そうすれば周りのすべての現実は変わり始めるだろう。」

「誰も一人きりではその任務を果たせない。私にわかることは、ほとんどの人が十分な信頼を持っていないということだ。」

「時々、私たちは他人の信頼の欠如を批判する。私たちは、この信頼が失われた状況を理解することが出来ないし、私たちの兄弟の惨めさを楽にしようとすることもしない。そして、このことは神の力に反感と不信を引き起こす。」

人文主義者のロバート・オーウェンイングランド中を旅して神の話をした。19世紀には、こどもの労働者を重労働に使うのが一般的だった。ある午後、オーウェンは炭鉱に立ち寄り、そこでは12歳の栄養失調の少年がレンガの詰まった重たい袋を引きずっていた。『あなたが神と話す手伝いをしに来ました』とオーウェンは言った。『ありがとうございます。でも、僕は彼を知りません。彼は他の鉱山で働いているに違いありません』と、その少年は答えた。そのような状況にいる少年がどうやったら神を信じることが出来るというのだ?」

ー質問を返させて下さい。どうやって信じることが出来たのですか?」

「信頼に加え、耐えること。:神の正義を、この地上で顕現させたいのなら、あなたは孤独ではないと理解しなさい。中世には、ゴシック様式の大聖堂は数世代に渡って建設された。この長期にわたる努力は、参加者が考えをまとめ、感謝し、夢見るための助けとなった。今日、ロマン主義は終わったが、建築の願望は私たちの心の中に残っている。それはただ、適切な人々に会うことに対し開かれていることについての問題なのだ。」

 

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