白い部屋

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マスターと私 ー退屈 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

 

マスターと私 ー退屈
2012/3/3
パウロ・コエーリョ

(これらのメモは1986年8月に書かれた)

私たちはフレンチタウンの庭に座っていた。
「人々は不満を言うけれど、彼らは本心は決まりきった日常を愛しています。」私は言った。
「もちろん。とても簡単な理由だ。:決まりきった日常は、安全であるという誤った感覚を彼らに与えるのだ。すると、今日はまったく昨日のようになり、明日は驚きをもたらすことがない。日が暮れると、魂の一部は新しい経験がなにもなかったことに不平をこぼす。だが、逆説的に他の部分は満足している。それは同じ理由だ。
「この安全は明らかに完全な誤りだ。;誰も何もコントロール出来ないし、変化はいつも最も期待しないときに現れ、私たちは驚いて反応したり戦ったりすることができない。」

ー私たちが変化のない生活を望むということを自由に決定できるのなら、神はなぜ私たちにそれを変えさせようとするのでしょう?
ー現実とは何だろう?それは私たちがそうあると想像するものだ。
もし多くの人が世界はこんな感じだとかあんな感じだとか「考える」としたら、私たちの周りはすべて明確になりしばらくの間何も変化しない。しかしながら、人生とは絶え間ない進化だ。ー社会的、政治的、霊的、どのレベルにおいても。
物事が進化するためには、人々が変化することが必要だ。私たち皆が相互に結びついているので、運命は進化を妨げる人々に、時々ひと押しを与えるのだ。

「一般的には悲劇的なやり方で…」
「悲劇はあなたの見方による。
あなたが世界の犠牲者であることを選ぶとき、あなたに起こることはあなたの魂の暗い側面に力を与えるだろう。それは自分が間違っていて、苦しんでいて、罪があり、罰に値すると考える側面だ。
あなたが冒険者であることを選ぶと、(この世界のすべてが変化するため避けられない損失すら)変化は痛みを引き起こすことがある。だが対応を促すため、すぐにあなたを前に押し出すだろう。」
「多くの言い伝えで、知恵は入り口に2本の円柱がある寺院によって表される。:
それらの2本の円柱はいつも反対のものの名前を持っている。私の意味することを明らかにするため、私たちは1本を恐怖、もう1本を欲望と呼ぶ。入り口に立つ時、彼は恐怖の柱を見て考える。:
『神様、この先で私は何を見つけるのでしょう?』それから彼は欲望の柱を見て考える。:
『神様、私は持っているものにとても慣れています。いつも生きてきたように、私は生き続けたいのです。』そして彼はそのままとどまる。;
これが私たちが退屈と呼ぶものだ。」

「退屈とは…」
「停止する動きだ。私たちは本能的に自分が間違っていると知っていて、抵抗する。私たちは夫、妻、こども、隣人に不平を言う。しかし一方で、私たちは退屈と決まりきった日常が安全な避難所であることを知っているのだ。」

「この状況でも、人は生涯を存続することができますか?
「彼は人生に後押しされることができるが、抵抗してそこに留まり、常に不平をこぼすこともできる。そうなれば苦しみは役に立たず、彼に何も教えないだろう。」
「人は自分が通りぬけなければならない多くの扉のうちのひとつに向かって立ちつつも、残りの日々をそのまま過ごすことができる。だが、彼が本当に生き抜いていたのはその時点までだけということを理解しなければならない。彼は呼吸し、歩き、眠って、食べ続けるかもしれない。喜びがより少ない中で。なぜなら霊的には彼はすでに死んでいて、それを知らないからだ。」
「彼の霊的な死のように、肉体的な死が現わす日まで。;
そのとき神は尋ねるだろう。:
『あなたの人生で何をしたのか?』
私たちは皆この質問に答えなくてはならない。そしてこのように答える人々は困ったことになる:
『私は扉の前に立ったままでした。』」

 

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