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今日の読者からの質問:クリスチャン - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

今日の読者からの質問:クリスチャン
2009/2/5
パウロ・コエーリョ


ー私はずっと不思議でした。社会、特に西洋社会が神聖さと悲惨な状態を重ね合わせるのはなぜでしょう?
仏陀がかつて「人生は苦悩だ」と言ったように(それは明らかですが)、人々は「(特に不必要に)苦しめば苦しむほど、神または社会にとってより神聖な者になる」という、先入観を持っているように思えるのです。

同じように、人々はなぜ苦しみを避けようとする代わりに、喜びのために努力しないのでしょうか?

私にはわかりませんし、私だけかもしれませんが、これらの宗教の信念は、宗教的ではない様に私には思えます。

 

コエーリョから

クリスチャンの皆さん、

これは、私が人生で何度も熟考した問題でもあります。
あらゆる罪悪感や、人生の喜びから自分を奪うという先入観が、なぜ死後の報償のようなものをもたらすのか?
十字架で苦しむイエスのイメージ即ち苦悩が、なぜ教会で使われているのか?

この苦悩の概念が、正確にいつどうやってルールになったのか私はわかりません(特にキリスト教の信仰において)。
しかし、私が知っているのは、宗教体験はこのビジョンを超越するということです。

私の見るところの思いやりが、人間の偉大なメッセンジャーの本当のメッセージなのです。
彼らの人生の例、彼らの経験、彼らのメッセージに焦点をあわせることによって、このあらゆる罪から抜け出す道があるということを私たちははっきりと見る事ができます。その罪とは、突き詰めれば、人々を束縛して盲目にさせるその恐怖なのです。

 

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