白い部屋

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禅 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより


2008/7/31
パウロ・コエーリョ

光の戦士オンラインでは、禅の古典的テキストをしばしば転記した。しかし、正確には何を意味するのだろう?ミン・ゼン・シャキヤ(Ming Zhen Shakya)の説明によれば、禅は仏教に向かい、カバラユダヤ教に向かい、瞑想はキリスト教に向かい、スーフィー舞踊はイスラム教に向かう。つまり、それは哲学的または精神的な教えの神秘的な実践なのだ。

禅の学校は中国で始まり、ネパールからの仏教と地域の道教の伝統(それについては後に議論しよう)の混合物だ。700〜1200年の間、僧は日本に旅し、そこで身体的な姿勢を元に2つのタイプの瞑想を開発した。:臨済宗では、敬意と真面目さを持って生きればあらゆる人間は悟りを達成出来るとするが、曹洞宗では、この目的を達成するための長期の修行の重要性を説く。

大抵の宗教では、悟りを開いた人とは、自身を自我から解放でき、自分は神の偉大な計画の中では小さい部分 ーだが重要な部分ー に過ぎないことを理解し、この部分の良い仕事に集中するために可能性のあるすべてのことをする人だ。その人がこの方向に導かれるにつれ、余分なことは重要でなくなり、これと共にその人の苦しみは退く。

禅のマスターによれば、私たちは皆、自己の存在理由について直感的な知識を持っている。しかし、大抵の哲学的または宗教的教義は誘発の方法にすぎない。内面に深く降り、すでにそこにある英知と接触する。その英知は、偏見、罪悪感、精神的混乱、自己の重要性についての偽の考えの層に深く埋められているからだ。

禅(特に曹洞宗から練られたもの)は、人がこのうちなる平和と理解に到達することを可能にする一連の手法を開発した。私たちにとって、内なる探索の西洋の視点では、それらの手法はイエスの言葉と深く関係しており、マタイの福音書にはこうある。:「祈る時は、クローゼットに入りなさい。そしてその扉を閉めるとき、こっそり父に祈りなさい;そうすれば父はこっそりそれを見て、あなたに堂々と報いるでしょう。」

禅の修行をする人は、静かなな場所を見つけ、脊椎を支えずに長時間均衡を保つことのできる姿勢で座る。;それゆえに、最も有名なポーズは、両足を組み、骨盤の前で両手を組むものだ。私が訪ねたいくつかの日本の禅寺では、身体を少し持ち上げて脚への血液循環をよりよくさせるために、皮のクッションのようなものを使う。

では、いくつかの簡単なルールに従って、できるだけ長時間動かずにいてみてほしい。頭は前に傾け、目の焦点を合わせず、眠くなるので目を閉じてはいけない。ひとりがもうひとりの呼吸を観察し、そのリズムに影響しないようにする。リズムはできるだけ自然であるべきなのだ。座禅(この姿勢の名前)が行われている間、その人の吸気と呼気はより休みがちでゆっくりになる。

瞑想の手法を知っているとする多くの人は、「心を空っぽ」にしなければならないと考えるが、私たちは皆、そしてあらゆる偉大な禅のマスターも、これが不可能であると知っている。大切なのは、思考や感情を支配しようとせずに、神との精神的な接触も求めようとしないことだ。;私たちがもっともっと静穏になるにつれて、このすべてはそれ自体の時間にやってくるのだ。

禅の修行は極めて単純で、どんな宗教的、哲学的含意もなく、私たちが神に繋がり自らの疑問に答えるのを、無意識のやり方で「逆説的に」手助けしてくれる。今度家で何もすることがなく、周りのすべてが嫌になり繰り返しばかりだと思ったら、静かな場所に座って、じっとして、あなたの周りの世界を成り行きに任せてみよう。

人生で重要なことをするために、何もしないことを時折自分に許すべきだということがわかるだろう。

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