白い部屋

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アンディジャンを覚えていますか? - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

アンディジャンを覚えていますか?
2008/5/12
パウロ・コエーリョ

昨日、この記事をヘラルド・トリビューン誌で読んだ。今日、友人と歩いていて、それをブログに投稿しようかと私は考えた。良心の元囚人であり、3回逮捕され、残虐な拷問を受けた存在として、グアンタナモからミャンマーまで至る所で毎日見る虐待に対し、私は目をつぶることができない(これからも決して)。

記事はそれ自身で語る。私はブログのために編集することに決めたが、あなたはそれをインターナショナル・ヘラルド・トリビューンのウェブサイトで見つけることが出来る(無料)。ブラジルでの軍事独裁政権だった間、同様のことが起きた。経済的な利権は人間の生命よりも重要だったのだ。

私たちに出来ることは少ししかないと知っているが、その少しが違いを生むのだ。

アンディジャンを忘れないで
著者:ガリマ・ブハルバエバ

2005年5月13日、東部のアンディジャン市で数千人が集まった平和な大会に、ウズベキスタンの保安部隊が射撃を開始した。それにより、女性とこどもを含むおよそ1000人が亡くなった。

私は生の暴動を直接見た。自分の国の内務省の軍隊が、装甲兵員輸送車で街の広場に乗り付け、ライトとヘビー両方のマシンガンを使って無差別に掃射するのを観察した。

ウズベキスタンは、常にひどい人権の履歴をもっていたが、その日から、大統領イスラム・カリモフの国民への制圧は新しいレベルに達した。証人とその家族は、アンディジャンの出来事をイスラム聖戦の暴動として位置づける自白を強制するために、嫌がらせや拷問を受けた。多くの人は、私のように故国を逃れるか、想像される最悪の結果になるリスクを負わなければならなかった。

カリモフのイデオロギー信奉者の1人の言葉を思い出す。彼は大虐殺のすぐ後に次のように予測した。
心配はいらない。西側諸国がどんな抗議をしても、繋がりを取り戻すために彼らは皆、「膝まづいて彼に請うことまでして」もう一度統治者の機嫌を伺うだろうからと。

悲しいことに彼は正しかった。大虐殺から数週間と数ヶ月の間に、アメリカは市民に対する過激な武力行使を避難した。それに応じ、カリモフは南部ウズベキスタンのカルシ・ハナバードにある軍事基地からアメリカ人を追い出した。

欧州連合はもう一歩先に進み、武器の通商停止と大虐殺に関わった12人のウズベキスタン当局者へのビザ禁止を含む、体制に的を絞った一連の制裁を実施した。だが最初から、ヨーロッパはその制裁をあまり真面目にとらなかった。2005年11月の発効日、ビザ禁止リストの中の1人、内務大臣ザキルジョン・アルマトフはドイツのハノーバーの診療所で実際に医療を楽しんでいたのだ。

2006年までに、ビザ禁止リストは12人から8人まで減らされた。2007年、制裁は6ヶ月間保留になった。この年の4月、再び保留され、今では10月に完全に期限が切れるよう設定されているようだ。

大虐殺を取り上げた数少ない記者の1人として、アンディジャンの住民が私と同僚を手助けしてくれたこと、殺されたり拷問を受けるかもしれないと知っていたのにも関わらず、私たちを助けるために車で連れて回ることに同意してくれたことを私は思い出す。世界が真実を知るために彼らはリスクを取ったのだ。命はかけがえのないものだということ、政府によるそのような犯罪は黙認されるべきではないということ。その信念を、西側諸国が共有したと彼らは信じていた。

今、その人々に私は何を言えるだろう?西側の政治家がもはや誰も「アンディジャン」と口に出しさえしないとでも?

ガリマ・ブハルバエバ(Galima Bukharbayeva)はアンディジャンの大虐殺を担当した人物で、今はドイツのデュッセルドルフで暮らしていて、オンラインニュースサービスUZnews.net.の編集長だ。

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