白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

熊野への道 4/5 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

熊野への道 4/5
2008/4/11
パウロ・コエーリョ

痛みの限界

私たちは山の頂上にいて、碑文の刻まれた石柱がそばにある。高い所から見ると、森林の真ん中に寺があるのが分かった。

カツラが言う。
ーあれは巡礼が必ず訪れる3つの神聖な場所のひとつで、ここに到着したとき、巡礼はそれらのひとつにすでにとても近くにいるということに大きな喜びを感じるのです。
ー伝統では、生理中の女性はこの地点より先に行けません。ある時、詩人がここまで来て、寺を見たが、生理中だったために先に行けませんでした。4日間断食する強さが自分にないと彼女は理解していたので、目的地に到達せずに戻ることにしました。彼女は歩いて来た日々に感謝の詩を書き、翌朝引き返す準備をして眠りにつきました。

「すると女神が夢に現れました。彼女の詩は美しいので、詩人は先へ進めるでしょう、と女神は言いました。おわかりのように、良い言葉は神の意見さえ変えることができるのです。石柱には、彼女が書いた詩が記されています」。

カツラと私は、寺から私たちを隔てる5キロを歩み始めた。突然、会った生物学者の言葉を思い出す。:「女神があなたに、体験を蓄積する技法である修験道の修行を望めば、あなたがやるべきことを女神が教えてくれるでしょう」。

私はカツラに告げる。
ー靴を脱ぎます。

地面は岩だらけでひどく冷たい。だが、修験道は肉体的な痛みも含むあらゆる面での自然との交わりだ。カツラも靴を脱ぎ、私たちは出発した。

最初の一歩を踏み出すと、尖った岩が足を突き刺し、私は深手を負ったのを感じる。私は叫びたいのをこらえて歩き続ける。10分後、私は出発した時の半分の速度で歩いている。足がどんどん痛くなってくる。私は一瞬考える。まだどれだけ歩かなければならないのか、感染症になるかもしれない、出版社が東京で私を待っている、用意されているインタビューや会議のことなど。しかし、痛みはすぐにそれらの考えを押し戻し、私はさらに一歩踏み出し、またさらに一歩踏み出し、可能な限り進み続けることに決めた。
私は、修験道を修行しにここに来たたくさんの巡礼者のことを考える。何週間も食べることなく、何日も眠らずに。しかし、痛みのせいで、罰当たりなことも高尚なことも考えることが出来ない。単純に痛みだけがすべての場所を占領し、私を脅かし、限界のこと、達成出来ないのではないかということを考えることを強いる。

それにも関わらず、私は、次の一歩、また次の一歩と踏み出すことができる。痛みは今や私の魂を侵すように思える。前に多くの人が成し遂げたことをやる力が私にはないため、私は弱気になる。肉体的、精神的な痛みが同時に起きて、母なる地球との結婚のようには思えず、むしろ罰のようだった。私は混乱していて、カツラと一言も交わさず、私の宇宙に存在するのは、木々の間を通る道の小さな、尖った石を踏みつける痛みだけだ。

そのとき、とても奇妙なことが起きる。私の苦しみが非常に大きかったので、防御機能で、私は自分自身の上に浮いているような気持ちになり、自分が感じていることを無視できた。痛みの遥かかなたに、別のレベルの意識への扉があり、そこにはもはや、自然と自分自身の他に何の余地もないのだ。

今はもう痛みを感じず、嗜眠状態で、足は自動的に道を進み続ける。私は理解する。痛みの限界は私の限界ではないのだと。つまり、私はそれを越えて行けるのだ。望まずに苦しむ全ての人々を私は思い、このように自分を罰するのは馬鹿げていると感じたが、このように生きることを私は学んだ。 ー私の前の大抵の物事を十分に試してみること。

私たちがようやく立ち止まったとき、私は勇気を持って傷口が開いた自分の足を見る。隠れていた痛みは、再び全力で戻ってくる。私は旅はもう終わったと考え、何日もの間歩くことは出来ないと考える。翌日、全てが癒されていたときの私の驚きを想像して欲しい。つまり、母なる地球は自分のこどもを世話する方法を知っているのだ。

傷口は物質的な体を越える。;私の魂に開いた多くの傷口は、名前を思い出せない寺に向かって熊野への道を歩いていたとき、感じた痛みによって追い払われた。痛みの上になんとか浮くことができるときにだけ、私たちはある種の苦しみを忘れられる可能性があるのだ。

(つづく)

 

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