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熊野への道 5/5 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

熊野への道 5/5
2008/4/14
パウロ・コエーリョ

僧侶とメッセージ

私たちは仏教の寺の非公開の場所にいる。僧侶が歌い、大声で祈り、打楽器を演奏しているのが聞こえる。以前に修験道の修行をした別の機会のことを私は思い出す。:0度以下の中、コートもなしに歩き続け、一晩中起きたままで、痛みがそれ自体を麻痺させることが出来るまで、木の粗い樹皮に額を押し当て続けたのだ。

旅の間中、今、私に向いて祈りを唱えている僧侶がその地方で最も偉大な修験道の専門家だと、人々が言った。私は集中しようとしているが、しきりに儀式の終わりを待っている。そこから私たちは別の建物に行き、山を流れ落ちる巨大な滝があるのがそこからわかった。ー134メートルあり、日本一高い滝だ。

私が(そして同席していた全員が)驚いたことに、その僧侶は私が書いた本を3冊持っていて、それらにサインするよう私に頼んだ。私は、私たちの会話を録音する許可を彼にもらう機会を得た。微笑みを絶やすことがないその僧侶は承諾した。

修験道が作られた熊野への道は困難でしたか?

ー人間に痛みを支配し自分の限界を超えさせる本質を理解することが必要です。1300年前、集中することが難しかった僧侶が、疲労や肉体的な障害を乗り越えることが、瞑想に役立つことを発見しました。僧侶は死ぬまで道を歩き、山を登り降りし、暖かい服を着ないで雪の中に留まり、瞑想のために毎日滝に入りました。彼は有名になったので、人々は彼の例に習うことに決めました。

修験道仏教徒の習慣ですか?

ーいいえ。それは魂が体と共に歩むのを助ける、肉体的な負荷の修行の一種です。

修験道と熊野への道が意味するものを、ひとつの文でまとめることが出来るとすれば、それはどんな文でしょうか?

ー体に最高の要求をしながら、彼らの心が神を見るならば、肉体的な訓練をするものは精神的な経験を得る。

ー肉体的な痛みが重要なのは、どの時点までですか?

ーそれには限界があります。一度痛みの境界が越えられると、精神は強化されます。日々の生活の欲望は意味をなくし、人は浄化されます。苦しみは、痛みからではなく欲望からやって来るのです。

僧侶は微笑み、近寄って滝を見たいかどうか私に尋ねる。ーそれで私たちの会話が終わったと理解する。去る前に、彼は私の方を振り向く。:

ー忘れないで下さい。:自分に対する闘いも含め、全ての闘いに勝つことに努めて下さい。傷跡を怖れてはいけません。勝利を怖れてはいけません。

翌日、旅立とうとしたとき、カツラ(熊野での初日から私と一緒にいる29歳の若い女性)が空港に姿を見せ、熊野についての歴史的な事実が書かれた、日本語で書かれた小さな原稿を私に渡した。私は頭を下げ、私を祝福してくれるよう彼女に頼む。彼女は一秒も躊躇しなかった。:彼女は日本語でいくつかの言葉を言う。私が見上げたとき、彼女は微笑みを浮かべていた。誰も知らない道の案内人になることを選択した若い女性の微笑み、誰もが感じるわけではない痛みを支配することを学び、それを考えることによってでなく、歩くことによって道を踏むのだと理解している微笑みを。

 

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