白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

20年後:モスクワとエカテリンベルグの間 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

20年後:モスクワとエカテリンベルグの間
2006/5/26
パウロ・コエーリョ


シベリア横断鉄道を行く貨物列車に本を持って到着する。9228キロメーターの乗車中に時間がたくさんあると思ったからだ。だがすぐに、読んだり書いたりするのが全く不可能だということに私は気付く。揺れる上にショックアブソーバーが良くないのだ。私に出来るのは、考えることと駅に到着した際メモをいくつか走り書きすることだけだ。

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私たちは皆、神の夢の一部だ。
私たちの夢に住む人物と同じように、私たちは一定の独立性を持っている。
私たちは夢を見ている神ではないが、私たちはその一部だ。
このことが悪夢をもたらしませんように。
夜平和に眠ることができますように。

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主よ、私たちの疑いをお守り下さい。なぜなら疑いは祈りの手段だからです。
それは私たちを成長させ、同じ質問への多くの答えを怖れず見ることを、私たちに余儀なくさせるからです。

これができるように、
主よ、私たちの決断をお守り下さい。なぜなら決断は祈りの手段だからです。
疑いの後、ある道と別の道のどちらかを選択する勇気をお与え下さい。
私たちのイエスが、常にイエスであるようにさせて下さい。
私たちのノーが、常にノーであるようにさせて下さい。
一旦道が選ばれたら、私たちが決して後ろを振り返らないよう、または良心の呵責によって悩まされることがないようにして下さい。

これができるように、
主よ、私たちの行動をお守り下さい。なぜなら行動は祈りの手段だからです。
日々のパンが、私たちの内側に積み込む最高の収穫になりますように。
私たちが受け取る少しの愛を、仕事と行動を通して分かち合えますように。

これができるように、
主よ、私たちの夢をお守り下さい。なぜなら夢見ることは祈りの手段だからです。
年齢や状況に関わらず、心の中にある希望と忍耐の聖なる炎を生かし続けることができますように。

そしてこれができるように、
主よ、私たちがいつも熱意で満たされますように。なぜなら熱意は祈りの手段だからです。
熱意は、天と地、人とこどもを結び付けるものであり、願いは大切で私たちの努力に価するということを伝えるものです。
熱意は、することに私たちが完全に専心する限りにおいて、全てが可能であると保証するものです。

そしてこれができるように、
主よ、私たちをお守りください。なぜなら命は、私たちがあなたの奇跡を示さなくてはならない唯一の道だからです。
土が種を小麦に変え続け、私たちが小麦をパンに変え続けますように。
そしてこれは、私たちが愛を持つときにだけ可能なのです。だから私たちを孤独にさせないでください。
私たちに神の仲間と、疑いを持ち、行動し、夢を見て、情熱的で、まるで全ての日をあなたの栄光に完全に捧げているように生きる男女の仲間を常に与えて下さい。

アーメン。

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私の文章を読むのに約3分かかると思う。それで、統計によれば、同じ短い時間に300人が亡くなり、さらに620人が生まれる。

この文章を書くのにおそらく30分間かかる。:ここに座って、コンピューターに集中し、本を隣りに積み重ね、考えが頭にあり、風景は窓の外を通り過ぎる。私の周りの全ては完全にいつもの通りだ。;だが、その30分の間、3000人が亡くなり、6200人が初めて世界の光を見たばかりだ。

それらの家族たちはどこにいるのだろう?
愛する人を何人か失って嘆き始めた家族たち。または息子、孫、兄弟の到着に微笑み始めた家族たちは。

私は立ち止まり、しばらく深く考える。:おそらく、亡くなる人の多くは長く苦しい病気の終りに到着し、天使が迎えにやって来て安心する人もいる。この他に、生まれたばかりの何百人のこどもが1分以内に捨てられ、私がこの文章を書き終える前には死亡統計に転送される。

なんという考えだろう!偶然、そして突然に見つけた簡単な統計によって、それらの死別、出会い、微笑みと涙を感じることもあり得る。
部屋に1人、起こっていることに誰も気付かないままに、どれだけの人がこの人生を去るのだろう?
保護施設や修道院の扉のところに捨てられるためだけに、どれだけの人がひっそりと生まれるのだろう?

私は、過去には誕生統計の一部であり、いつか死亡統計に含まれるだろうということを考える。死んで行くということがはっきりわかっているのはなんと良いことか。サンチアゴの道を行って以来、人生は続き私たちは永遠だけれど、この存在はある日終わりを迎えるということを私は理解している。

人々は死についてほとんど考えない。本当につまらないことを心配して人生を過ごし、物事を延期し、重要な瞬間を脇にやる。彼らは何も危険を冒さない。なぜならそれが危険だと信じているから。たくさん不平を言うけれど、一定の手段をとる時には臆病者のように振る舞う。全てを変えたがっているが、自分自身が変わるのを拒む。

もし死についてもう少しだけ考えるなら、延期している電話をし損なうことはないだろう。もう少し夢中になるだろう。この人生の終わりを怖れないだろう。いずれにせよ起きそうな何かを怖れることは出来ないからだ。

インディアンは言う。:「今日はこの世を去るのに良い日だ。他の日と同じように。」
魔術師はかつて言った。:「死が常にあなたの隣りにありますように。そうすれば、重要なことをしなければならない時に必要な強さと勇気を、死はあなたに与えてくれるだろう。」

読者の皆さん、死がこれまでずっと連れ添っていてくれたことを私は願う。
死を怖れるのは馬鹿げたことだろう。なぜなら、遅かれ早かれ私たちは皆死んでいくからだ。そしてこれを受け入れた人たちだけが人生に備えることが出来るのだ。

原文:http://paulocoelhoblog.com/2006/05/26/twenty-years-later-between-moscow-and-ekaterinburg/