20年後:フェニックス - パウロ・コエーリョのE-CARDSより
拙訳
20年後:フェニックス
2006/4/26
パウロ・コエーリョ
20年前のこと。サンチアゴへの道を辿りながら、私はヴビジャフランカ・デル・ビエルソの村に立ち寄る。
その巡礼路で最も象徴的な人物のひとりはイエス・ジェイト。
彼はそこに巡礼者のシェルターを建てた。ジェイトを魔術師と考えた人々は村からやって来てその場所に火を放ったが、彼は怖じ気づかなかった。そして妻のマリア・カルメンと一緒に、もう一度最初からやり始めた。
灰から生まれ変わった鳥フェニックスの名前で、そのシェルターは知られるようになった。
ジェイトは「バーニング」を調合することで有名だ。「バーニング」は、儀式の一種で飲むケルト由来のアルコール飲料のようなもの。その儀式もケルトが起源だ。
この寒い春の夕方、アヴェ・フェニックスには、カナダ人が1人、イタリア人が2人、スペイン人が3人、オーストラリア人が1人いる。
ジェイトは、1986年に私に起きたことについて説明する。それは私が著書「魔術師の日記」に含める勇気がなかったもので、読者はきっとそれを信じないだろう。
ジェイトは語った。「地元の司祭が通りがかってこう言った。『その朝、巡礼者がヴビジャフランカを通り抜け、セブレイロ(巡礼路の次の区間)に到着していない。きっと彼は森で迷ったのだ』と。」
「私は彼を探しに行き、午後2時頃になってようやく洞穴で眠っている彼を見つけた。それはパウロだった。私が彼を起こすと、彼は不満を漏らした。『この道では、たった1時間眠ることも出来ないのですか?』。
私は、彼が寝ていたのはたった1時間ではないと説明した。彼は丸一日以上もそこにいたのだ。」
私はそれを昨日のことのように覚えている。:
私は疲れを感じ、落ち込んでいたので、しばらく休むことにした。洞穴を見つけたので、地面に横になった。
私が目を開けて彼を見たとき、たった数分しか経過していないことを確信した。なぜなら、私は1インチたりとも動いていなかったからだ。
今になっても、どうやってそれが起きたのかはっきりわからないし、説明を探すこともしない。つまり、私は神秘と共に生きることを学んだのだ。
ジェイトが先祖から伝わる詩を語っている間、ジェイトの「ウー!」をお供に、私たちは全員「バーニング」を飲んだ。最後に、カナダ人の女の子が私に近づいて来た。
「私は、聖人の墓、聖なる川、奇跡や幻の場所を探すタイプの人間ではありません。私にとって巡礼をすることは祝うことです。父と姉は若くして亡くなりました。ふたりとも熱中症だった。そしておそらく私はその傾向を持っています。」
「私はこの人生を早くに去るかもしれないので、世界の可能性を出来るだけたくさん知らなければならない。そして私にふさわしい幸福を味わう必要があるのです。」
「母が亡くなったとき、私は自分に約束しました。
朝日が昇るごとに幸せになること。未来を見ること、でも決してそのために現在を犠牲にしないこと。愛が私の道を横切る時にはいつでもそれを受け入れること。毎分を生き、私を幸せにすることができるどんなものも決して延期しないことを。」
1986年を覚えている。あの頃は、私の人生を変えるその旅をするために全てを脇に置き過ぎた。当時、たくさんの人たちが私を非難した。彼らは、そんなことをするのは頭がおかしいと感じた。私の妻は、私に必要な支援をしてくれる唯一の人だった。
そのカナダ人の女の子は同じことが彼女にも起きたと言い、持って来たテキストを私に渡す。:
「これは、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが1910年4月23日にパリのソルボンヌで行った演説の一部です。」
私は紙に書かれていることを読む。:
「批評家は何も言わない。:
強いものが敗北を喫するとき、または彼らが過ちを犯すとき、批評家はただ指差して非難するだけだ。
闘技場にいる者は、塵、汗、血にまみれた顔で勇敢に戦っている。真の功績は彼らにある。」
「過ちを犯す人、失敗しても少しずつ物事を正しくしていく人に真の功績はある。なぜなら過ちのない努力はないからだ。彼は大きな熱意と深い貢献を知っている。そして、彼のエネルギーを価値あるものに費やす。それが真の人間だ。最善の仮説では、彼は勝利と征服を知るだろう。最悪の仮説では彼は倒れるだろう。だが倒れてもなお、彼は偉大だ。なぜなら彼は勇気と共に生きてきて、勝利も敗北も決して知らない小さな心をもった魂より上に立つからだ。」
次回は2006年4月29日に投稿します
原文:http://paulocoelhoblog.com/2006/04/26/twenty-years-later-the-phoenix/