白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

ラ・ミラネシアナ:四元素について - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

 

ラ・ミラネシアナ:四元素について
2008/7/3
パウロ・コエーリョ

私がエリザベータ・スガルビーからラ・ミラネシアナ(訳注:ミラノで開催される文化祭)に招待された際、彼女は私に宿題を出した。:
四元素について書くこと。

特に、この「宿題」が私の初期の本のいくつかを再読する機会をくれるゆえに、そのアイデアはひどく私を惹き付けた。しかし、錬金術に関する私の本を開いたり、ソクラテス以前の思想家たちの著作に目を向けるより前に、私は世界で利用可能で最も使われている知識源のひとつであるウィキペディアに行くことにした。

私は、このタイプの情報を探す人々の大半がどのようにしてそれを見つけるのか知りたかったのだ。

それはすべて極めて簡単だった:
私は「火」「水」「空気」そして「土」とタイプし、与えられた定義を読み始めた。すべては予測可能だった(「空気」をのぞいては ー私は空気の元素につく前に、同じ名前の極めて有名なフランス人バンドが存在する事を私は理解した)。
基本的にウィキペディアは、それらの元素の原子組成を私に与え、私たちが住む惑星として地球(訳注:英語では土も地球も「Earth」)を述べ、現在の海洋汚染と大気汚染の問題を明らかにするだろう、それだけだった。

それらの元素の根源、伝統とそれらが代表する象徴について、一行も、ほんのリンクでさえ、言及されていない。もちろん、私は元素の科学的でより実際的な像を期待していたが、それらが象徴する事に関して何も見つからなかったということは本当に私を驚かせた。

元素の象徴的な重要性に数行を捧げるような関心が編集者に欠けているのはなぜだろう?

それはほとんど軽蔑に思えた。ーあたかも象意は重要でなく、単純な好奇心で、結局は時間の無駄だとでもいうように。

ある意味ではそれは新しい事ではない:
百科事典的な追求は区別に基づいており、物事は分類しておかなければならず、その定義された箱と現代の科学論文は究極の真実の源だ。実用的、経験的、科学的な論文は、私たちの社会で中立のもの ー実在のものと考えられる。

たぶん四元素のようなテーマが今日の思考からかなり取り除かれているのはそれが理由だろう。

最近の世界は実践的だ。ー私たちはひと目で言葉の意味とその機能を知りたがり、そして結局のところそれは有用だ。

だが、四元素の意味に飛び込んだとき、人は現実の反響の中で類推に基づく世界に戻って行く。ボードレールがこう呼ぶ様に:照応の世界

微量の砂は化合物であるだけでなく、私達の魂を支配する宇宙法則の本質への小さな扉である。

この思考回路における「有用」の概念は異なっている。

実際、キリスト以前の数世紀、一体性や多様性を理解しようとする中で実利思想家がもっていたものはなにか?命の神秘か?神の意志か?

四元素を理解する為には、真の努力をして戻る必要がある。
神が主権を統治していた世界に。
好奇心と疑問を持つ事が超自然と密接に結びついていた世界に。
物事の表面を越えて横たわっているものに。
超越が内在するものよりも「現実的」だと考えられていた世界に。

さて、あなたが港の近くの小さな町に戻っているのを想像してください。
そこでは男性が彼らの生活をいつも通りこなし、司祭は砂に円を描き大空を見ている。
鳥の群れの飛翔、風向きによって、戦争や他の町と一緒に仕事をするかどうかが決定される。
ー基本的に街全体の運命が決定される。

あなたがいう迷信だ。たぶんそうだろう。確かにそうだろう。

しかし人はこれを守るーこれは彼らが無知であったからだとあなたは言うだろうか?それともたぶん彼らは異なったレンズを通して世界を知覚したからだろうか?

なぜ彼らは特定の迷信を信頼するのだろうか?

それを怖れで片付けるのは的確ではないー古代ギリシャは不安定な場所で、そこでは異なる都市国家との間で不断の戦争が起こっていた。

彼らは分別がなかったというのもまた的確ではないー古代ギリシャでは、(他の古代文化や私たちが軽率に"原始的文化"と呼ぶのと同様に)規則は几帳面で、彼らの政治体制、彼らの商業、彼らの戦争を構築することにおいて人は極めて理性的であった。

いいえー答えは他のところにある。

本当の責任感と、力を追い求める人々のすべての要素(決定、ビジョン、創造性)を持った真剣な人は、これらの儀式を(そして有名な神託も)信じた。なぜならば自然はひとつで、ひとつであることは神聖であると受け取ったからだ。

元素は季節に照応するものとして知覚されていた;
季節は神と密接に関連し、人間の行為を統治した。

物事はそれで終わるか?いいえ。

ヘラクレイトスやエンペドクルスのようなソクラテス以前の哲学者は、絶えず問いかけ、変化の概念に精通していた。

これは私たちに何を教えているのか?それらの人は、世界を見て教えを求める必要を感じた。ある意味では現代の科学者がやる方法で。

しかし現代とは違いがある:
知識とは私達自身と私達自身の外にあるものの間で断続的に知覚するものだ。実践的な目的のためにそれを「役に立つ」ようにする必要をもたずに。
目的は別にある。ーそれは英知を得るため。

このように知識は、現実の分析ではなく、合理性だけでなくむしろ直感としての心からの理解であった。

魅力的な魔術師、エンペドクルスの場合を取り上げよう。西洋の伝統の中で四つの根の父とされた。ー彼は「空気」「水」「土」「火」元素と呼ばなかっただろう(それは後にプラトンと一緒に現れた)

この思想家によれば、変化とは元素を介して絶えず自分自身を結合するふたつの力の結果であった:
愛と争いだ。

愛を介して根は無数の方法で自分自身を結合し、争いを介して彼らは互いから離れる。
その時に人間はそれらふたつの力の結果となる:
生命は愛を通して生まれるー元素は融合するーそして赤ちゃんは産まれるー彼自身を母親から引き離して。
個体化ー人生に必要だーは必要な争いの結果だろう、ーしかし私達それぞれの内側には外界から再燃させられる事を待つ炎が置かれているだろう、融合と愛を熱望して。
このように元素はいつも自分自身と相互作用し、現実を構成するだろうーしかしその現実は、魂の様に見る事が出来ないものを含むだろう。

エンペドクルスは創造は、恒常的なカンバスであると見る。
その中で元素は、色のように混ぜ合わさり、互いに汚染し合い、
自然の多様性だけでなく生命の驚くべき迷宮を構成する。

エンペドクルスは自分自身を神とみなし、仲間の人間の恐怖をやわらげることに着手した。彼の知識、元素の知恵はとても驚くべきものだったので、彼は「風を止めるもの」として広く知られていたー町にペストをもたらしていた風を止める事が出来ていた。多くの神話が彼の死を取り巻くー彼は地球から救い出されたという人もいれば、エトナ火山に身投げしたという人もいる。
要するに、ーこの男は、彼の死と同様に人生を通じて、神話である。

もうたくさんだろうか?これが本当かそうでないか「知る」必要を感じるだろうか?それとも他の説明よりも、この伝説的な物語の中におそらくより多くの真実があるという考えに身を任せることができるだろうか?

この男、この人生、この象徴はあなたに何をもたらすだろうか?
元素として:
ー動きをもたらす火
ー上昇をもたらす空気
ー中心の概念をもたらす土
流動性をもたらす水

この魔術師の物語は、 実験的に証明しづらいが必要な何かをもたらす:
想像のための燃料だ。そして奇妙なほどに、真実と現実の感覚に深く基づいている。

四元素についての美しい物語を書いたバケラードというフランス人思想家がいる。
この思想家は(彼はなによりもまず生物学者で科学者だった)元素の詩に関する本で有名になった。
彼は元素を”想像のホルモン”とよんだ。

今日、私があなたに対する大きな責任を負って、私にみえる元素について語らなければならないのは:
私は何かを証明する為にここにいるわけではないからだ。
私はあなたに究極の真実をもたらす為にここにいるわけではないからだ。
そうではなくこれらの物語の中で、私は想像の世界が、私たちの魂にとってどれほど真に「役に立ち」また「必要」なものであるかを、あなたに気付いてもらう事を試みている。

ありがとう

原文:http://paulocoelhoblog.com/2008/07/03/la-milanesiana-on-the-four-elements/