白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

裁判 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

裁判
2018/10/5
パウロ・コエーリョ

辞書によれば:
語源はラテン語の”justitias”。法律への準拠。それぞれに相応しいものを与える行為。正当性。治安判事及び治安判事と一緒に仕事をする人々のグループ。


イエス・キリストによれば:
「目には目を、歯には歯を。」と言われるのを聴いたことがあるでしょう。しかし、私はあなたに言います。侮辱に抵抗しないで下さい。もし誰かに右の頬を叩かれたなら、もう片方の頬も彼に向けなさい。(マタイの福音書 5:38−39)


盤珪(バンケイ)によれば:
禅の達人である盤珪のクラスで、ある生徒が盗んでいるところを見つかった。弟子達は皆、彼の追放を求めたが、盤珪は何もしなかった。翌週、その生徒は再び盗みを働いた。頭にきた他の者達は、泥棒に罰を与えることを求めた。

盤珪は言った。「あなた方は皆、なんと賢いことか。」「あなた方は善悪を知っているのだから、どこでも好きな場所で学べます。しかし、この気の毒な兄弟は善悪を知らないので、彼に教えるのは私しかいません。だから私はそれを続けましょう。」
とめどない涙がその泥棒の顔を清めた。;そして盗みの欲は消滅した。


死を宣告された男によれば:
死刑囚監房は、権力、懲罰、暴力の政治がコンクリートと鋼を使う人間に適用される競技場だ。その人間が鋼とコンクリートになるまで。
だが、鋼は硬くなり得るが、それでも柔らかくなり得る。心臓はコンクリートになり得るが、それでも鼓動することができる。
ジャスティン・フラー、2006年8月24日テキサス州にて処刑)


スペインの宗教裁判によれば:
15世紀、宗教裁判の司祭は街から街を巡り、中央広場で住民を一同に集めた。説教をした後、ランダムに6、7人を選び、その隣人の生活について尋問した。;どんな場合でも、その人々は異教徒とされるのを怖れて、常に誰かを非難した。


茶道によれば:
私たちは他人の中に悪を見る。なぜなら、自分自身の行いを通して悪を知っているからだ。
私たちは自分を傷つけた人々を決して許さない。なぜなら、自分が決して許されることがないと感じているからだ。
私たちは他の人に辛い真実を話す。なぜなら、それを自分から隠したいからだ。
私たちは高慢の中に逃げる。そうすれば自分達のもろさを誰にも見られないからだ。
だから、兄弟達を裁いているときはいつでも、裁かれているのは自分だということを覚えておきなさい。
(岡倉 覚三、「茶の本」1904年)


証拠を探すこと:
証明の手段や調査方法として非効率的であるにも関わらず、何世紀にも渡り、拷問は、事実の真相を発見するための司法上の手法であった。(パウロセルジオ・ピネイロ、政治学教授)

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