白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

書くという行為2/2ーテキスト - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

書くという行為2/2ーテキスト
2008/4/30
パウロ・コエーリョ

前回の「光の戦士オンライン」で私は、読むこと、ペン、言葉について意見を述べた。以下はその話題についての最終のコメントだ。

先ず第一に、私が前に言ったことを繰り返そう。すべての人は語るべき良い物語を持っていて、自分たちの経験を少しだけ他の人と共有することは人間としての在り方の一部だ。あなたは私にこう尋ねるかもしれない。「出版社についてはどうですか?彼らはこれらの経験をどのように公表するのですか?」

実のところ、最近ではこのための多くのプラットフォーム(例えばインターネット、地方紙など)があり、あなたが書くものに関心を持つ誰かは常にいるだろう。だから、たとえその誰かが存在しないとしても、書く楽しみのために書いて下さい。

ペンが紙に言葉をなぞるとき、苦悩は消え幸福感が残る。これが起きるためには、自分の奥深くを見つめる勇気を持ち、それを外部の世界に公開し、さらにいつかあなたの書いたものが誰かに読まれる可能性がある(または読まれるべきだ)ということを知っているためにさらに勇敢であることが必要だ。

それが何か非常に私的なことなら?

心配ない。何千年も前、ソロモンが次のことを書いている。「あったことは何であれ、将来もあること。そして、これまでされたことは何であれ、将来もされること。太陽の下に新しいものは何もない(『コヘレトの言葉』1:9)。

言い換えると、何千年も前に新しいものが何もなかったのなら、想像して見て下さい!幸福感と苦悩は今でも同じで、私たちはそれを隠すべきではない。太陽の下に新しいものは何もなくても、自分たち自身と自分たちの世代のためにこのすべてを翻訳する必要はまだ残っているのだ。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスはかつてこう言った。
語られるべき物語は4つしかない。:

A) 2人の人物が関係するラブ・ストーリー
B) 3人の人物が関係するラブ・ストーリー
C) 権力闘争
D) 旅

そうであっても、世紀を通して、男と女はそれらの物語を形を変えて語り続けた。あなたが同じことをする番だ。書く技法を通して、あなたは自分の未知の宇宙と交信するようになり、最後には、過去に考えていたよりもはるかに有能な人類であるように感じるだろう。

同じ言葉を別のやり方で読むことができる。例えば「愛」という言葉を1000回書き記すとき、感情はその都度でさまざまだ。

文字、言葉、文章は紙の上に書き出されるので、緊張する理由はない。書く手は結局は落ち着き、あえて自分の感情を共有した人の心は微笑む。

テキストを書き終えたばかりの作家のそばを通れば、彼が顔に空の表情を浮かべ、混乱しているように感じるだろう。

だが、彼は(彼だけは)知っている。彼は多くの危険を冒し、本能をやっとのことで開発し、全過程の間、気品と集中力を維持したのだ。そして今、宇宙の存在を感じるだけの余裕があり、彼の行為は正当でふさわしいものだったとわかる。彼の一番の親友は彼の思考が次元を変化させたことを知っている。今、それは全宇宙と交流する。彼は仕事を続け、自分のテキストが生み出したあらゆる肯定的な物事を学び、どんな間違いも修正し、その資質を認識する。

書くことは勇気の行為だ。しかし、危険を冒す価値がある。


●私たちと批評家

伝記を読みなさい。:彼らの活動が何であっても、無傷で逃れる人はいない。
尊敬すべき「タイムズ」(訳注:英国の世界最古と言われる日刊新聞。1785年創刊。)によって変態扱いされたジェームズ・ジョイスから、ウンベルト・エーコ(訳注:イタリアの小説家、文芸評論家)から二流人とされた映画の天才オーソン・ウェルズへの言葉。

読み続けなさい。作家は書き、読者は読み、批評家は批評する。その秩序を逆転することは、少なくとも勧められることではない。しかし、実際には毎日、マスコミの私に関するネガティブな何かを見て個人攻撃されたと感じる人々からの電子メールを何通か受け取る。

連帯には感謝するが、このすべてはゲームの一部なのだと私は説明する。「アルケミスト」を書いてからずっと、私は批判されて来た(「魔術師の日記」は、作家についての報道を除いては、比較的マスコミに気付かれずに済んだ。しかし、本の内容にはこれまでほとんど言及されていない)。

私は、多くの作家が途方もない大衆的な成功を楽しむのを見てきたが、批評家から免れない投石を受けるとき、彼らは二つの方向のどちらかに従う傾向がある。
第一は、それ以上本を出版できないということ。:パトリック・ジュースキントの「パフューム」の場合がこれだった。当時、彼の編集者(その人は私のドイツ語の編集者でもある)が、地方紙に全2ページを公表した。1ページでは、その本をひどく嫌っている批評が載っていて、別のページでは、本の販売業者が、どれほどその本が好きかを述べていた。「パフューム」は、書店で過去最大の成功を収めた。そして、ジュースキントは短編集と大成功を収める前に書いた2冊を出版し、それから現場を去った。

第二のケースでは、作家は怖じ気づいて次の発売で批評家を喜ばせようとする。スザンナ・タマーロは「心のおもむくままに(原題「Follow Your Heart」)」で途方もない大衆の拍手喝采(と批評家からの攻撃の殺到)を楽しんだ。ファンに心配そうに待たれた彼女の次の作品「大地の息づかいがきこえる(原題「Anima Mundi」)」で、彼女は原題の簡素で素晴らしい詩をとても複雑な何かに変え、忠実な読者を失い、批評家も喜ばせることなく終わった。

別の例は、ヨースタイン・ゴルデルだ。「ソフィーの世界」は、哲学の歴史を直接的に、感じの良いやり方で取り扱うことができたので、大変な成功を収めた。しかし、批評家も哲学者もその本を好まなかった。ゴルデルは複雑な言葉を使い始め、読者に見捨てられることとなった。それはいまだに批評家にひどく嫌われている。

上の段落から、私もまた判断を下し始めたようだ。なぜか?批評はとても簡単だからだ。難しいのは本を書くことだ。

「ザーヒル」で、主人公(有名なブラジル人作家)は、自分の新しい本について何を言われるかを正確に推測できると言う(本はそれでも出る必要がある)。:「私たちが生きている厄介なこの時代に、著者はまたしても私たちを現実逃避させる」「短い文章、表面的なスタイル」「著者は成功の秘訣を見つけた。それは宣伝だ」。

ちょうど「ザーヒル」の主人公のように、私は決して間違っていない。私はブラジル人記者と賭けをして、勝ったのだ。

アイルランドの劇作家、ブレンダン・ビーアンの文章でこのコラムを終わりにしよう。:

「批評家はハーレムにいる性的不能者だ。理論的には、彼らは最善のやり方を知っているが、彼らが得るのはそれだけだ。」

批評家の紳士の皆さん、どうぞ私のようにして下さい。つまり、上記の文章を個人攻撃として受け取らないように!

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