熊野への道 2/5 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより
拙訳
熊野への道 2/5
2008/4/9
パウロ・コエーリョ
木こりと山姥
山奥の宿屋で、山姥と呼ばれる女性が黒い着物を着て、私を迎えに出て来た。私は靴を脱ぎ、伝統的な日本の部屋に入り、こんな寒いところでは眠れないだろうとすぐに思った。私は、ヒーターを要求するように通訳に頼んだ。年取った日本人の女性が顔をしかめ、私が修験道に慣れるべきだと言った。
ーシュゲンドウ?
だが、すぐに食事をするよう私たちに指示をし、女性は既に姿を消していた。5分も経たないうちに、私たちは地面を掘って焚いた火の周りに座っていた。天井からは大釜が吊るされ、周りには串刺しにされた魚が置かれている。案内人のカツラが、すぐに木こりと共に到着した。
カツラが言った。
ー彼は道のあらゆることを知っています。なんでも尋ねて下さい。
木こりは言った。
ーお話しする前に、飲ませて下さい。酒(米で作られた日本のワインのようなもの)は悪霊を追い払うのです。
ーそれが悪霊を追い払うのですか?
ー発酵飲料は生きていて若年から老年に向かいます。それが成熟に達すると、抑制の霊、人間関係の欠如の霊、怖れと心配の霊を破壊する能力を持ちます。しかし、多く飲み過ぎるとそれは反抗し、敗北と攻撃の霊をもたらします。それは全て、その人が越えてはいけない点を知っているかどうかの問題です。
私たちは酒を飲み、火の周りで焼いた魚を食べた。女主人が加わった。私は、なぜ人々が彼女を山姥と呼ぶのかを尋ねた。
ー私が生まれた場所や、どこから来たかや、年齢を誰も知らないからです。私は歴史のない女になることに決めました。過去は私に痛みをもたらすだけだからです。ふたつの原子爆弾が私の国で爆発し、道徳と精神的価値観が終わり、行方不明になった人々によって苦しみが引き起こされました。ある日、私は新たな人生を始めようと決めたのです。私たちには理解出来ないある種の悲劇があるのです。だから、私はそれを全て置き去りにしてこの山に来たのです。私は巡礼者を助け、宿屋の手入れをし、一日一日が私の最後の日であるかのように暮らしています。毎日、様々な人々と会えることを楽しんでいます。私は常に外国人に会います ーたとえば、あなたのようなね。ブラジル人にはこれまで会ったことがありません。黒人も1985年まで見たことがありませんでした。
私たちはもっと酒を飲み、人間関係の欠如の霊は退散したように思えた。私はブラジルについてたくさん話し、奇妙なことにくつろいでいるように感じられ始めた。
私は木こりに尋ねた。
ー人々はなぜ熊野を訪れるのですか?
ー何かを求めるため、いくつかの誓いを果たすため、または人生を変えたいと望んでいるから。仏教徒はこの辺りに広がる99の聖地を旅し、神道家は母なる大地の3つの寺を訪ねました。途中で彼らは他の人々に会い、問題と喜びを共有し、共に祈り、最後には、世界で彼らは孤独ではないと理解し始めます。そして彼らは修験道を修行したのです。
私は、山姥が言ったことを思い出し、それが何なのかの説明を彼に求めた。
ー説明するのは難しいのです。しかし、それは自然との完全な関係性ということは言わせて下さい。愛と痛みの関係性です。
ー痛み?
ー魂を支配するためには、体を支配することも学ばなければなりません。体を支配するためには、痛みを怖れることはできません。
彼は時々、友達と近くの崖に行き、腰にロープを縛りつけて、宙にぶら下がったままでいると言う。友達はロープを揺らし、彼は何度か岩にぶつかる。気絶しそうだと感じたら、再び引き上げてもらうよう合図を送る。
木こりは言った。
ー人間は自然のあらゆる面を知るべきです。彼女の寛大さ、彼女の過酷さ。この方法でだけ、彼女が知っている全てのことを私たちに教えることが出来ます。単に私たちが知りたいと願っていることではなく。
日本の何処かの宿屋にいて、火の周りに座り、酒は距離を縮め、山姥は私と(または私「を」)笑っている。私は木こりの言葉のうちの真実を理解した。:人は、単に欲しいものではなく、どれが必要なのかを学ばなければならない。その瞬間、私は熊野への道で修験道を習う方法を探すことに決めた。
(つづく)