白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

20年後 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

20年後
2006/4/18
パウロ・コエーリョ

レオンガーデンに座り、流れる川を見ながら。
今日は3月27日だ。

私の隣には妻のクリスティーナがいて、本を読んでいる。
ヨーロッパでは春が始まり、セーターはトランクの中にしまうことが出来る。私たちは何日も車で旅を続けていて、私たちの人生を印した場所を通っていた(クリスティーナは1990年にこの聖ジェームズの道を歩いたのだ)。
私たちは先を急いではいなかったが、たった1週間で500キロの道のりを踏破できた。

ミネラルウォーター。コーヒー。

会話する人。歩く人。

コーヒーもミネラルウォーターも飲んでいる人。

それは20年前、1986年7月または8月の午後のことだ。
コーヒー、ミネラルウォーター。会話する人。歩く人。
だがこのときは、その風景はカストロヘリスに沿って広がる平原で構成されていて、私の誕生日が近づいていて、私はずいぶん前に「サン=ジャン=ピエ=ド=ポル」を出、今はコンポステーラの聖ジェームスに続く道の途中にいる。

私の歩く速度:1日20キロ。

前方の単調な景色を見る。どこからともなく現れたバーのそばで、ガイドもコーヒーを飲んでいる。
後方を振り返り、同じ単調な景色を見る。唯一違うのは、地面の埃に私の足跡があるところだ。
これは一時的なものだ。夜が訪れる前に、風がその足跡を消し去るだろうから。

全てが現実でないように思える。

私はここで何をしているのだ?たくさんの週が過ぎた後でもこの疑問は私について回る。

私は剣を探している。ラム教団(カトリックの小さな結社)で教わった儀式を達成しようとしているのだ。それは、世界の象徴的な言語を理解しようとする以外の秘密や神秘を持っていない。
私は考え始めていた。
私は騙されてきた。霊的な探求は意味をなさず、理論もない。おそらく、ブラジルに戻って、いつもやってきたことをやるのが最善なのかもしれない。

私はこの探求での自分の誠意を疑う。
なぜならその探求は、決して自らを明らかにしない神を見つけるために過大な作業を課すから。正しい時間に祈らなければならないから。奇妙な道を歩かなくてはならないから。修行を受けなくてはならないから。私には不合理に思える命令を受け入れる必要があるから。

それはこういうことだ。:つまり、私は自分の誠意を疑う。
道はあらゆる人のため、普通の人のためにある(それは私にとって本当にがっかりする考えだった)、とその頃いつもペトラスは言っていた。
私は考えていた。宇宙の原型に近づいたわずかな幸福な人の中に、私がしてきたあらゆる作業がユニークな場所を授けてくれるはずだと。
私は考えていた。チベットの賢者の秘密の政府に関するあらゆる話、以前は魅力さえ存在しなかった場所に愛を目覚めさせる力のある魔法のポーションの話や、天国の門が突然ひとりでに開く儀式の話、それらの話が真実だったということを最後に発見するだろうと。

だが、ペトラスが私に言っていたことは正反対だ。:「選ばれし者」などいない、と。
「私はここで何をしているのだ?」と自問する代わりに、心に熱意を目覚めさせることをすることを選べば、皆が選ばれたことになる。天国の門は熱意を持って仕事をする中で見つかる。
それが、愛が変容し、神により近い所に私たちを案内するやり方なのだ。

私たちを聖霊と繋ぐのは、数百数千の古典的な文書でなく熱意なのだ。奇跡が起きるのを可能にするのは、「秘密の儀式」や「秘伝の慣習」でなく、人生は奇跡であるという信念なのだ。
要するに、人生の神秘を明かそうとする理論ではなく、運命に従うという人間としての決意こそが彼を人間にさせるのだ。

そして私はここにいる。コンポステーラの聖ジェームスに続く道の途中だ。事が彼の言うように単純であるなら、この無意味な冒険を、なぜ私はしているのだろう?

 

paulocoelhoblog.com

youareme.hatenablog.com