白い部屋

あなたと宇宙を泳ぐ

2006年9月、サン・ジョルジェ城にて - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

 

2006年9月、サン・ジョルジェ城にて 
2006/12/20
パウロ・コエーリョ

私の意見では、孤独はあらゆる悪の中でも最悪だ。
私たちに影響を及ぼすときに、その態度をとらざるを得ない飢え、乾きや病気などと違い、孤独はしばしば美徳と断念のオーラの下に覆い隠されている。

しかし今日私は一人だ。なぜなら私は独りになる事を選んだからだ。

今日は私にとって特別な日だ。:
私は穏やかなヨーロッパの秋を散歩していて、広い通りを歩いて、魂やタバコ屋について話す人々の傍を通り過ぎる。私はリスボンを歩く。;
サン・ジョルジェ城に登り、テージョ川と大西洋を見て、何も考えないように努める。

ブラジルに太陽が登ると間もなく本屋は開き、私の新刊が初めて読者の手に入るだろう。とてもたくさんのタイトルが出版されたので、私がそれに全く慣れているとあなたは想像するだろう。しかし、そうではない。神さまありがとう。20年前に「巡礼」を出版した時と同じ興奮と感激を、私は今でも感じるのだ。

私はポケットからこのノートブックを取り出し、書き始める。;
感激して興奮している以外に、私は怖れも感じているのだろうか?
私は立ち止まり、木々の中で風の音に耳を傾ける。しばらく真剣に考え、それから書く。:
「いや、私は怖れていない」
この瞬間の私は、赤ん坊に生を与える母親と娘が彼氏と暮らすために家を出るのをやっと認める父親の混合物である。

「読者がどう反応するかについて私は考えるか?」
私はノートブックに書き留める。再び私は風の音を聴き、そして答えが戻ってくる。:
もちろん考える!何と言っても、私はベストを尽くした。そして他の誰かと同様、私の愛を理解してもらうことを望むのだ。マスター・エックハルトとして知られる14世紀の偉大なドミニカの神秘家はかつて言った。:
「私は人間だ。これを他の人間と分かち合うことが、人間の天性の一部だ。」
ホテルから城までの散歩で、目にした、会った、感じたすべては、私たちそれぞれの人生観を少しだけ分かち合う試みである。建物のファサードのタイル、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のデザイン、祈る人々の沈黙、丘陵地の通りでアコーディオンを演奏する男、彼は周りで起こっているすべてのこととは異質だ。いつの時代も職人たち皆、言おうとする。:
これが私が思ったことで、これが私だ。

5日前、ヨーロッパで秋が始まったが、気候はまだ暖かい。しかし冬は近づいていて、寒さはおそらく無情になるだろう。そしてその時は葉っぱをたくさんつけている木々も、それらが落ちるとき悲しみのため息をつくだろう。彼らは多分言うだろう。:
「私たちは二度と同じになることはないだろう。」

ちょうど同じに。そうでなくして、再生の目的はなんだろう?
次の葉っぱはそれ自身の個性を持っていて、それらはやってくる新しい夏に属し、それは過ぎ去った夏と決して同じではないだろう。

生きる事は変化する事。
ーそれが季節が私たちに教えてくれる教訓だ。
私もまた、それぞれの新刊の新しい葉っぱによって変化した。
他の何事も自分自身に証明する必要がないというのは少し傲慢だろうか?それは傲慢でないかもしれないが、確かに愚かだ。私はすでに私の孫に語る物語を持っている。だがもし私がこれまでに何か持っていたとしても、過去の成功を生き甲斐に生きる人は皆人生の意味を失った。

私は再びテージョ川を見て、フェルナンド・ペッソアの幾行かを思い出す。:

テージョ川はあなたを世界に連れ出す。
私の村の川向こうに何があるのか誰も考えたことがない。
私の村の川はあなたに何も考えさせない。;
あなたがそのほとりに立つ時、あなたはただそのほとりに立っているだけだ。

私の村の川 ー私の新しい本ー が私一人のものである最後の時間だった。そして私はそのほとりに立とうとするだろう。何も考えることなく。ただリスボンを見て、鐘の音、犬、通りの叫び、子ども達が笑い、旅行者が話すのに耳を傾けて。
私は子どものようだ。そして私はとても興奮しているのを恥じていない。私をそのままにさせてくださるように私は神に祈る。

原文:http://paulocoelhoblog.com/2006/12/20/at-saint-georges-castle-september-2006/