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ビリーフネットのためのインタビュー:パウロ・コエーリョは天使と踊る - パウロ・コエーリョのE-CARDSより

拙訳

 

ビリーフネットのためのインタビュー:パウロ・コエーリョは天使と踊る
2007/8/3
パウロ・コエーリョ

アルケミスト」の著者が、神の女性の顔を受け入れること、ローマ教皇、そして彼がダンスする時に魂が行くのはどこか、について語る。

ヴァレリー・リースによるインタビュー

昨秋、「アルケミスト」他およそ14の小説の著者で、ブラジル人のベストセラー作家とオンラインチャットをしていたとき、私は彼の全くの国際性に驚かされた。
ミラノにある彼のホテルからニューヨークにいる私に話しながら、エジプト、スウェーデン、スペイン、イランから彼のファンが質問を注ぐ。
彼らは、彼がどこでアイデアを得るか、彼が慣習としていることは何か、どうやって彼ら自身の内なる宝物を探しすことができるのかを知りたがっていた。
そしてそれがパウロ・コエーリョと彼の本の驚くべき名声である。その本は65言語に翻訳され、一見単純な霊的メッセージを含み、至るところでしばしば深く人の心に触れる。
批評家、特にアメリカ人の批評家は彼の小説を単純過ぎるとして切り捨てる傾向にあるが、読者は気にしていないようだ。:彼は150カ国以上でで8千500万冊の本を売り上げている(「アルケミスト」単独では3千万冊売れている)。

驚くほど人あたりの良い59歳の著者は、最近私と新しいラウンドに至った。
彼はパリの自宅からチャットをしようと呼びかけて、彼の最新の本「ポルトベーロの魔女」について、なぜ彼はダンスを愛するのか、彼の曖昧なカトリック信仰、そしてなぜ私たちは、それがたとえ苦しくても愛を受け入れる事が重要なのか、ということについて語った。

ーどのようにして魔女について書くことを決めたのですか?

第一に、私は神の女性的側面を「詳細に述べる」ことを考えていました。少なくとも私たちの文明において、私たちがあまり注意をはらっていない事柄です。カトリックユダヤ教イスラム教など主要な宗教では、どういうわけか神が女性の顔を持っているという事を否定します。しかし、あなたが聖書を開けば、この女性的存在があるのを見ます。
第二に、私はこの問題を私たちの周りにある見える現実と繋ぎ「たい」と思ったのです。私にとってすべては神聖で、それは地球に始まり、人によってつくられた物に至るすべて、です。

最後に、「ポルトベーロの魔女」は型にはまらない霊的な道に向かって、あえて歩みをとる人々についての話です。そして彼らはすぐに魔女だとラベルを貼られます。そしてそう、魔女は偏見に満ちた言葉です。この本はこのことについてのものです。
魔女は既存のルールに決して従わず、敢然と立ち向かい、越えていき、人生を祝福し、これをしている間、愛し、喜びと楽しみを持とうと常に努める人たちでした。

ー本の中で登場人物が「全ての女性は魔女だ。」と言います。それを肯定的な事として意図したのでしょうか。

ええ、絶対に。はいはいはい。全ての女性は男性よりも遥かに発達した知覚を持っています。それで、全ての女性はともかく何千年もの間抑圧され、彼女たちはこの第六感、熟考、愛を発達させるに至ったのです。
そしてこれは私たちが社会の一部として受け入れるのが困難でありうる事柄です。
私たちは、現実を単なる物理的なものでそれ以上ではないと考えようとしています。しかし女性も含めて私たちがすべきことは、この女性的側面をもっと開発する事です。それは直感を意味し、現実の新しい認識に対して開かれている事を意味します。一般的には、女性はよりそれに開放的です。

ーなぜあなたは、多くの人々が神の女性の顔にそれほど脅かされていると考えるのですか?

なぜならそれは、私たちが人生での唯一の手引きとして、愛をもっと受け入れることを必要とするからです。そして私たちは苦しみを怖れているのでそれをしません。私たちは制御を失いかけています。私たちは知らない道に引きずり込まれそうになっています。

ーなぜ愛を受け入れるのが、私たちほとんどにとってそれほど困難なのでしょうか?

なぜなら、それは苦しみを伴うからです。あなたはわかっているでしょう。第一に、愛は人生の中で最も重要な感情です。第二に、それは野性的なものでもあり、私たちを天国にも地獄にも連れて行く事が出来ます。あなたの人生が悪夢になりうるのです。しかしそれは危険を冒す価値がある、ということなのです。

ーあなたの本では、ロマンチックな人間の愛の中で霊的な道を失うことの間にいつも葛藤があります。これがあなたの理解の仕方ですか?

もちろんです。はい。ええ。それは怖れることではありません。

ーしかし、あなたの登場人物たちはかなりそれを怖れている様に思えます。

ええ、なぜなら私たちは人間としてそれを怖れるからです。しかし最終的には、さて、ただリラックスして楽しんで下さい。人生はこのようなものですから。

ーそしてこの本の中で音楽は大きな要素です。あなたはダンスをしますか?

しますよ。踊っているとき、私は何も考えていません。私はここにいます。私全部がそこにいます。そうでしょう?そしてその感覚は自分自身から離れている感覚です。私の魂は天使たちと踊り、私の体は妻と踊るのです。

ーどんな音楽で踊るのですか?

私の世代、私たちはまさにクラシック・ロックンロールでした。ナイトクラブに行っても、あなたがこれを聴く事はもうありません。あなたはただ「バンバン」「ブンブン」を聴くだけ、そして私はそれで踊ります。誰が歌っているのかは知りません。誰が演奏しているのかは知りません。私はただそこへ行き踊るのです。感情的にバランスがとれている事が重要だと思うので、踊る事を通じて制御を失うために時々、少なくとも週に一度はそうするのです。

ーあなたが家にいて音楽をかけるのはいつですか?

それは全く別のことです、はい。なぜなら例えば、私は歌や音楽を聴きながら同時に書く事が出来ないからです。音楽がとても強いので、私は書くのを止めて音楽を聴き始めるでしょうから。だから私はミューザック(訳注:BGMの商標名)のように音楽を聴くことが出来ません、わかるでしょうか?いつもかかっているような音楽です。いやいや。私にとっての音楽は完全な集中を必要とするのです。

ー作品の中で、あなたは教会の規則と聖書の教えの矛盾をしばしば指摘します。そこでの偽善について何か言うことはありますか?

私の宗教とカトリック教徒であることしか言えません。私はカトリック教徒です。なぜなら私がカトリック教徒であることを選ぶからです。それで私はミサに行きます。なぜなら私が選ぶからです。それは私の自由意志の届かないところです。しかしまた一方では、人間が神聖な儀式に触れるのを私がときどき見るとき、ああ神様、それは正確にはイエスが言ったことではないのです。イエスはもっと開かれていて、彼は生きる喜びに満ちていました。なぜなら彼はいつも旅をしていて、女性に囲まれ、ワインを飲んでいたからです。ご存知の様に、使徒とすばらしい会話をしながら。

私の教会では、いまでは以前よりも、彼らは人類の自然な流れに逆らおうとしています。今度の新しいローマ教皇は、平たく言えば災害です…。例えば、コンドームに反対する教皇を私は擁護しないでしょう。私たちはまだ中世にいて、カトリックの信仰が唯一の正しいものだと考えるような教皇を私は擁護しないでしょう。それであなたは尋ねます。もしこの教皇やたくさんの聖職者や司教たちに同意しないのなら、なぜあなたはカトリック教徒であると考えるのか?と。私は言います。はい、私の宗教はそれを導こうとする人たちよりも重要だからです。

しかし、ミサの儀式とキリストの言葉はー、ええ、私たちはこの教皇を生き延びるでしょう。ミサは神秘です。そして私にとって、それは最も完璧な儀式です。

ー世界中で宗教的な争いが増えています。そのことがどのようにあなたの本への熱望につながりますか?あなたの本は宗教の境界を越えて人々に気に入られます。

私の本がなぜ気に入られるのかはわかりません。なぜなら私は自分自身を理解するために書くからです。私が「魔女」を書いたとき、私はパスルのようなそれらの考えを持っていました。私は全体像を理解するためにそれらをひとつにする必要がありました。それゆえ、書いたとき私はとても明確に自分を見る事が出来ました。

私は自分が書くときにはとても行き当たりばったりです。私は私を刺激することの中から題材を選びます。すると本はベストセラーリストを作ります。それでなぜか?わかりません。たぶんこの秘密を学んだ日、私はこの行き当たりばったりを失うでしょう。私はそれを何度も何度も繰り返すでしょう。するとそのとき本はもはや自己発見の道具でないでしょうから私は迷子になります。それは単なる製品になるでしょう。その後、私にとって完全に意味をなくしてしまうでしょう。

ーあなたが書くために、なんというか精神的、霊的な準備をする方法をいくつか教えて下さい。あなたの儀式はなんですか?

書くためのひらめきを得る最善の方法は、私の場合人々に会うことです。あなたが学ぶ人々に会う時、あなたは耳を傾けます。そしてときどきあなたは自分自身に耳を傾けています。あなたは鏡の前にいるのです。あなたはよりよくあなた自身を見ているのです。私は2年ごとにしか本を書きません。そして私は1ヶ月で本を書きます。なぜなら、本は心の中に書かれているからです。それで、もちろん私は人間の状態の一部として、私の人生を共有しなければなりません。なぜならあなたが共有する必要があるからです。もし共有しなければ、あなたは迷子になるでしょう。

ーそして白い羽はどうですか?あなたは書く前に白い羽を見るのを待つとのことですが。

ああ、白い羽。ええ、ええ、ええ。これは私が自分で作った伝統です。40歳の時、私はまだ本を書いたことがありませんでした。しかし私の夢は作家になる事でした。だから私はこの巡礼の旅をしたのです。私は聖ジェームスの道(スペインのサンチアゴにある)まで56日間歩きました。そして言いました。「ああ、神様、私の夢は作家になる事です。しかしいつも後回しにしています。」そのとき、私は自分自身に言いました。「もし今日、白い羽を目にしたら、私が新しく本を書くべきだという神様が私にくれた合図だ。」それから私はその「白い羽」を店のウインドウの中にみました。それから、2年ごとの1月に、私は「白い羽」を見る必要があるのです。見たらその日に書き始めます。もちろん、私は毎日白い羽を見ています、だが1月に見るそれが「白い羽」なのです。読者が封筒に入れた白い羽を私はたくさん手に入れました。しかし私はその「白い羽」を見つける必要があるのです。

ー次はどんな仕事をしていますか?

なにも。

ーそれはいいですね!

私は、私の人生を生きるか、もしくはそれが風と共に去るのをそのままにする以外には何もしない時期にいます。私の次の白い羽は2008年の1月でなければなりません。2008年1月まで、私は、ええ、私は生きています。私は人々と会っています。私はダンスしています。私はやりたいと感じることなら何でもしています。

ー最後の質問です。あなたにとって神とはなんですか?

「神とは行為です」
神は動詞です。神は行為です。神は、ええと、動詞です、そう。定義できません。モーセがあなたは誰かと尋ねる時、神は「私はある」と言う。神は私はこれだとかあれだとか言わない。「私はある」というだけです。だから、私はこれが最善の定義だと考えます、わかるでしょうか?神はある。

以下はビリーフネットのインタビューへのリンクです。一部を音声で聴く事もできます。
http://www.beliefnet.com/story/222/story_22241_1.html

愛を込めて

パウロ

 

 

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