思い出と塩 - パウロ・コエーリョのE-CARDSより
拙訳
思い出と塩
2018/11/8
パウロ・コエーリョ
朝8時、私はマドリッドに到着する。
数時間しかそこにいない予定なので、友人に電話したり会う約束をするほどでもない。
お気に入りの場所をひとり散策することに決め、最後はレチロ公園のベンチに座ってタバコを吸うことになる。
「心ここにあらず、ですね。」
ひとりの老人が言い、私が座っているベンチに腰掛ける。
「いいえ、そんなことはないですよ。」と私は言う。
「ただ、私はこのベンチに画家の友人と一緒に座っているのです。彼はアナスタシオ・ランシャル(Anastasio Ranchal)、24年前の1986年のことです。私たちはふたりとも、私の妻のクリスティーナを見ています。彼女は少し飲み過ぎてフラメンコを踊ろうとしていたのです。」
「思い出を楽しんで。」と老人が言う。
「ただ、思い出は塩のようなものだということを覚えていて下さい。適量ならば食べ物に味わいをもたらしますが、多過ぎるとそれを台無しにします。常に過去に住んでいれば、思い出すための現在がないと気づくことになるでしょう。」